まめしばミニチュアカーレポート
まめしば自動車研究所からのレポートです。画像をクリックすると拡大します。
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夢のスーパーカー
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(1) 私とフェラーリ

フェラーリとの出会いというのは,私の人生の中で3度あります。 最初の出会いは小学生の頃,もちろん,かの「 スーパーカー・ブーム 」においてです。 しかし,当時私にとって最もセンセーショナルだったのはミウラ,イオタ,カウンタックとの出会いの方で,フェラーリはランボルギーニに比べると存在感の薄いものでした。

2度目の出会いは,1995年,たまたまTVで見たF1レース。 ミハエル・シューマッハとの出会いと共に,私はF1とフェラーリの世界にのめり込んでいったのです。  一大ブームが巻き起こった1980年代には特にF1に関心がなかったのですが,偶然目に留まったシューマッハの走りはインパクトが強く,心から「 凄いな 」と思いました。 私がティフォジ(フェラーリ狂)になったのは,この27歳の時で,シューマッハの走りによって様々な意味で勇気を与えられ,それと共にフェラーリのミニカーを収集し始めた経緯もあります。

NEWS WEEK シューマッハ

そして,まだミニカー収集を始めたばかりの頃,こんなエピソードもありました。
ある日,職場で,同じ趣味を持つある同僚と最近手に入れたミニカーの話で盛り上がっていると,そこにいらっしゃったお得意先の方が話に割り込んできて,
「 F40,持ってらっしゃるんですか? 私,最近,F348を手に入れましてね。 」
「 えぇ,F40は玉数が少ないですからね。 見つけるのに苦労しましたよ。 」
「 そうでしょう。 私も,できたらF40が欲しいんですよね。 是非今度乗せてください。 」
「 ・・・乗せて・・・?? 」
そうなのです。 実は,その方は,列記としたリアル・フェラーリ・オーナー。 しかも,ミハエル・シューマッハのF1デビューマシン( まさか,日本にあるとは・・・! )まで保有している大富豪だったのです。 どうやら,私たちのミニカー談義をリアルマシンの話と勘違いしたらしく,それがきっかけで知り合いになりました。 その方は,他にもランボルギーニ・ディアブロもお持ちで,ガレージまで招待していただき,エンジンのかかったマシン達のコックピットにまで座らせてくれたのです。
 

自動車図鑑 シューマッハ等
三郷

しかも,ベルギーGP直後( ジョーダンはそれほど金策にこまっていたのでしょうか ),まだシューマッハが有名になる前ということで,わずか\700万ほどで競り落としたという,緑色のフォーミュラーマシン。 その方との出会いも運命なら,それは,ミハエル・シューマッハが引き寄せたものと信じざるを得ませんでした。 

三郷4

残念ながら,そのフォーミュラマシンは赤いフェラーリではありませんでしたが,F348のコックピットやエギゾーストノートを間近に体感するチャンスが持てたということで,決定的な出会い・・・フェラーリとの3度目の出会いとなりました。 実は,その時に,「 Ferrari Club Japan 」の公式ステッカーを2枚いただき,その1枚を長男のペダルカーに貼らせていただいているのです。

三郷2

秀馬のフェラーリ

フェラーリ 秀馬

私の長男の名前は「 秀馬 」といいます。 これには,フェラーリの「 跳ね馬 」のイメージ,「 優れ秀でた馬=フェラーリマシン 」のイメージ,「 シューマッハ 」という音声的イメージを込めたのです。 特にF1ドライバーにしようという意図( 希望はありますがw )はないのですが,ミハエル・シューマッハの様に,そしてフェラーリマシンの様に,世界で唯一無二の存在となって欲しい,そして,私が勇気づけられた様に,人々に何かを与えられる様な存在となって欲しいという願いを込めたのです。 
私は実際にフェラーリを所有しようとは思いません。 それは,私の「 無理は無駄 」というライフスタイルを否定することになってしまうからです。 まぁ,いわゆる「 負け惜しみ 」なのですが,ミニカーを眺めているだけで十分です。 夢の世界の車なのですから,そのくらいの距離を置いていていいと思うのです。 ( 2008年7月現在 )308GTBなら,確かに¥300万弱の相場で手に入るので現実的なのですが,実際に所有して長く付き合っていった場合,短所を知った時に果たして愛しつづけられるか自信がありません。 私は,自分がそのくらい意気地のない人間であることを知っているのです。 夢は夢のまま取っておくことも大切ではないでしょうか。 ですから,無論,子供に対しても無理な夢を押し付けるつもりはありません。 ただ,フェラーリマシンが,甲高いエギゾーストノートを響かせながら疾走する様に,息子にも人生を精一杯,一生懸命に生きていって欲しいとだけ思っています。



(2) フェラーリとは何か

 コメンダトーレ(創設者)・エンツォ・フェラーリは,第一次世界大戦後アルファロメオに入社し,テストドライバーを経て,1929年,アルファロメオ社から独立したワークスチーム,「 スクーデリア・フェラーリ 」を組織すると,1930年から37年までの8シーズンをオーナーとして主宰しました。 しかし,アルファロメオの経営方針の変更により,ワークスチームが会社直属の「 アルファ・コルセ 」になった1938年に退社しています。 また,このときの契約により5年間はレース活動を停止しなければなりませんでした。 そして,第二次世界大戦後,マラネロでチームを再結成し,1947年,フェラーリとして最初のオリジナルレースカー,ティーポ125をデヴューさせています。 この車の開発の際,V12を選択した理由として,当時既に出来上がっていた,4気筒=マセラティ,6気筒=ERA( 英国 ),8気筒=アルファロメオという図式の中で10気筒か12気筒を考えたのだろうということと,多気筒化によるエンジンの信頼性の向上を狙ったのだろうということが考えられます。 ティーポ125は,各シリンダーの排気量が125cc,即ち1500cc,60度V12という小排気量エンジンでしたが,スーパーチャージャーにより他の大排気量車と同等のパワーを誇っていました。 しかし,NAエンジンへの移行を果たしたティーポ375では4500ccまで拡大されています。 やがて,フェラーリは「 レーシング資金を確保する 」為に,1948年からストラダーレ( ロードカー )作りを開始しました。 1960年には名称をSEFACに変更し,1969年に経営権の半分をフィアットに譲渡すると,ロードカーの製作の一切を任せ,SEFACはレースに専念することになります。70年代初頭までFRに拘りつづけたフェラーリは,伝統のV12エンジンシリーズを250,275,365と発展させていますが,この数字の意味はフォーミュラマシン同様に1シリンダー当たりの排気量となっていますので,それは3リッター,3.3リッター,4.4リッターという大排気量化の歴史でもありました。 フィアットとの共同経営の下,フェラーリのストラダーレには2つの系統が生まれることになります。 ティーポ125以来伝統となったV12エンジン搭載トップモデルであり,最後のFRベルリネッタとなった365GTB/4ディトナ( 1967年,ディトナ24時間で1~3位独占を記念して名付けられました。 )に加え,エンツォ最愛の息子アルフレッドが生前開発に携ったというF2用エンジン,65度V6の流れを汲む2リッターエンジンをリアにミッドシップする,ロードカーとしてはフェラーリ初のMRモデルとされる,ディーノ206GTが登場するのです。 1967年に登場した206ですが,やはりフォーミュラマシン同様に数字の前が排気量,後が気筒数を表すもうひとつの形式( この場合2リッター・6気筒エンジン )が採用されています。
 アルフレッドは1932年1月19日,エンツォと細君ラウラとの間に誕生しますが,既に亡くなっていたエンツォの兄にちなんで名付けられた為に,「 アルフレッド・ディーノ( 小さなアルフレッド ) 」と呼ばれていました。アルフレッドは筋ジストロフィによる腎不全の為1956年6月30日に24歳という若さで天に召されました・・・。 亡き息子アルフレッドを思う父が,小さなフェラーリにそのニックネーム「 ディーノ 」と命名しているところに切なさを感じてしまうのは,私だけではないはずです。 エンツォは「 V12を積む 」ことをフェラーリの条件としたために,「 ディーノはフェラーリではない 」という定説が出来上がりましたが,実は亡き息子アルフレッドのメモリアルとして,フェラーリから生まれた直系の子供であるディーノというブランドを立ち上げたというのが正しいところでしょう。 それは,当時のフェラーリV6のカムカバーやディーノの車体にアルフレッドのサインが鋳造で描かれていたことからも明らかではないでしょうか。
1969年のジュネーブショーでは,2.4リッターにスケールアップしたディーノ246GTが発表されます。見た目に変化はなかったのですが,ボディとシリンダーブロックがアルミからスチールに変更されていました。V12とV6,この2つの系統のデザインは共にピニンファリーナが担当し、その後もフェラーリといえばピニンファリーナという関係ができあがり,それはユーザーの間にも浸透していった様です。

・365GTB/4 ディトナ 72年からリトラクタブルライトに変更
・ディーノ246F1( 1957~58 ):2.4リッター6気筒
・フェラーリ ティーポ156( 1961~62 )“ シャークノーズ”:1.5リッター 120度V6
 この車からエンジンがドライバーの後ろに搭載された。
 このマシンのドライバーに後にホンダのドライバーを務めるリチャード( リッチー )・ギンサー
 このマシンをモチーフにしたデザインが,2005年登場の量産型ストラダーレF430に用いられている

(3) ディーノエンジンの絆とデザイナーたちの確執

ところで,ここであえて「 フェラーリ 」を名乗らなかったディーノ206GT・246GTにまつわる逸話を紹介します。 先ず,共同経営者となったフィアットですが,F2エンジンの「 連続する12ヶ月間に500台以上生産すること 」というFIA規定( ホモロゲーション )を満たす為に,この2リッターエンジンをフェラーリに先駆け搭載したディーノスパイダーと,いすゞ117クーペをほうふつとさせるディーノクーペーをリリースしているのです。 両方とも販売的には成功しなかったモデルといわれながらも,最終的にはスパイダーは約1500台,クーペは約6千台製造されました。また,2.4リッターに拡大したディーノエンジンが,その素性の良さ( 元々レースのホモロゲ用であったということ。 そして,60度角が一般的なV型エンジンで65度角を採用し低重心化に貢献していたこと。 )から,1974年にはラリーで勝つことだけを目指して設計されたランチア・ストラトスに搭載されることになります。 私も大好きな,このストラトスのフォルムは非常に美しく,最近になってもレプリカが製造されつづけているほどです。 それまでFF方式でラリーの世界に君臨していたフルビアHF( 1966~73 )の後継として登場したストラトスなのですが、一見すると初代日産シルビア似のフルビア( 名前も似ていますw )クーペ( 1965~76 )とは全く異なるコンセプトであるのは一目瞭然です。 ストラトスは1974年から3年連続でランチアにタイトルをもたらしました。 さて,ここでお話した3台,フェラーリ・ディーノ,フィアット・ディーノ,ランチア・ストラトスの登場の裏に隠されたデザイナーの戦いも忘れてはなりません。 フェラーリの専属と言っても過言ではないピニンファリーナはディーノとディーノスパイダー,フェラーリユーザーからは冷遇されたベルトーネがディーノクーペとストラトスを担当していたというのも面白いとは思いませんか。 実は,このデザイナー達の死闘はもうひとつの形でも行なわれています。

(4) ランボルギーニの台頭

 農業用トラクターの製造等で一財を成したフェルッチオ・ランボルギーニは元々フェラーリのオーナーだったのですが,フェラーリ車についての自分のアドバイスがエンツォから無視されたことに腹を立てたことから車造りを始め,プロダクションモデルとしてはフェラーリに先駆けてV12DOHCを搭載する350GTを1964年に発表してしまうのです。 そして,やはりフェラーリ( レースカーではフェラーリの250LMはMRでした )よりも早くV12をミッドシップしたミウラを1966年に発表し,その名声を不動のものとします。 実は,このランボルギーニのデザインに携っていたのがベルトーネだったのです。このミウラにはイオタという亡霊も付きまとうのですが,1971年発表のカウンタックに引き継ぐまで,ランボルギーニの黄金時代を築きました。 カウンタック( ピエモンテ州の方言で驚きを表す感動詞 )が発表された年,ミウラの完成型400SV( SVとは「 より速くチューンされた 」という意味の句の頭文字を取ったものです。 またミウラとは,フェルッチオの知人の牧場の名前で,獰猛な闘牛を輩出していたことで有名です。 )もライト回りのまつげ状のグリルの廃止やノーズの変更を受けていました。 一方,フェルッチオには「 レース活動には一切手を出さない 」というポリシーがあったので,ランボルギーニのテストドライバー,ボブ・ウォレスが非公式に製作したマシンの名前がイオタだったのです。 この世界に1台しかないマシンの正式名称は「 ミウラ・コンペティシオーネ 」といい,FIA国際スポーツ法典附則J項に則って作られたので「 J(Jota) 」と呼ばれる様になったのです。 しかも,イオタは試験走行中にクラッシュで大破し消滅してしまいました。 この伝説のマシンに憧れた何人かの富豪がランボルギーニにミウラベースのイオタレプリカを作らせたこともあり神格化されていった経緯もあります。
ランボルギーニはミウラの他に,2+2のハラマ,4座のエスパーダ,2+2MRのウラッコ(シルエット)を1970年代に輩出してはいたものの,トラクター部門の失敗によって,カウンタックが発表された翌年の1972年にフェルッチオの経営権は完全に失われています。 その後,度々オーナーが変わり,BMWと提携してM1の共同開発なども行ないましたが,1978年には倒産し,1998年にVWの傘下に下り現在に至っております。 しかし,カウンタックは,市販が開始された1973年以来,その後継であるディアブロが登場する1990年までの17年間製造されています。 1973年にはプロトタイプのLP500( LPとは「 縦置き後ミッドシップ 」という意味の語句の頭文字を取ったもので,500は5リッターを意味します )を4リッターにスケールダウンしたLP400としていましたが,1978年には後輪のトレッドを広げオーバーフェンダーで武装さあせたLP400S,1982年にはLP500を復活させ,インパクトのあるウィングが奢られました( 実際には1975年に1台だけLP500Rなるものがワンオフで発表されています )。1985年には5000QV( 余りにも有名な「 クワトロバルボーレ( 4バルブ )の頭文字 」を発表。 最終的には1988年に25thアニバーサリーを発売しました。
さて,この経営失敗の陰で生まれた珍車も存在しています。 経営難から脱出すべくアラブマネーを狙って企画された「 チータ( LM001 ) 」がそれで,当初MRAWDでセンセーショナルに登場したものの,LM002ではエンジンをフロントに移し,結局はわずか23台だけしか販売されずランボルギーニの救世主にはなりませんでした。 昔,BIG ONEガムのオマケで,このチータをプラモデルで組み立てたことがありましたが,現在は手元にLM002のミニカーしかありません。 チータ( LM001 )はカッコ良かったのですが・・・,LM002ははっきり言って・・・。

(5) MRフェラーリ

 ランボルギーニに遅れること1973年,365GT4/BBが1970年に登場したF1マシン,312Bの流れを汲む180度V12をミッドシップして登場します 1976年には,その後継モデル512BBが登場し,この頃からV12搭載車についても前の数字が排気量,後の数字が気筒数を表す様になったので,この場合,5リッター12気筒ということになります。 365GT4/BBとの外観上の区別としては,512のサイドシル( ドアの下の部品 )にはランボルギーニカウンタックと同じNACA型ダクトが設けられており,テールランプも3連から2連に変更されている点が有名です。 ちなみに、BBとは「 ベルリネッタ( 小型スポーツクーペ ) 」と「 ボクサー( 180度V型エンジン=水平対抗エンジン ) 」を組み合わせたものです。 ちなみに,「 O 」はホモロゲーションを意味し,「 S 」はスパイダー,「 2+2 」または「 4 」は4人乗りを表します。 このマシンの流れが1984年登場のテスタロッサへとつながり,1992年の512TR,1995年のF512Mを輩出していきます。
一方,「 元祖ピッコロ・フェラーリ( 小さなフェラーリ ) 」,ディーノ246GTは,1973年,3リッター90度V8をミッドシップした308GT4にバトンを渡しますが,ベルトーネデザインのこの車はフェラーリ愛好家から不評を買った為,1975年にはピニンファリーナによる308GTB/GTSが登場し,ピッコロフェラーリとしてフェラーリのエンブレムを付けることを許されると共に,このシリーズはベストセラーとなります。この308のエンジンをグループBのホモロゲに合わせて2855ccに縮小しツインターボを搭載した288GTOは,フェラーリがグループAに移行することによって,レースで活躍することもなく,わずか272台のみが製造されるに留まりました。 その為このマシンはコレクターズアイテム化しましたが,3リッターに満たないエンジンは400ps/7000rpmを誇り,最高速度は305km/hまで及びました。このマシンは,その名の通り1962年デビューの250GTOの再来と謳われましたが, 250GTOはFRであり,レースでも1964年までの3年間,ワールドチャンピオンシップに輝いています。 伝統のピニンファリーナデザインとスカリエッティ( フェラーリ工房 )製作という点はおなじですが, テスタロッサ( 「 赤いヘッドカバー 」 )はエンジンに用いられておらず,僅か39台のみの製作となっています。

(6) 永遠なるキャバリーノ・ランパンテ( 跳ね馬 )

 1987年,エンツォ・フェラーリ最後のプロデュースとなる,478ps/7000rpm,最高速度324km/hを誇る,フェラーリ創立40周年スペチアーレF40が288GTOのV8DOHCを2936ccまで拡大し,日本のIHI製ターボチャージャーを2基備えたユニットを搭載して世に出ます。 これによって,フェラーリの起源が1947年発表のティーポ125であると初めて公言したエンツォは,その翌年8月14日に90歳で他界しますが, 1995年には,520ps/8500rpmと325km/hの最高速度を誇り「 公道を走るF1 」と謳われたF50が発表され,349台にV12DOHC60バルブエンジンが奢られたのです。 その最後の1台を1997年に出荷することで50周年を祝ったフェラーリは,2002年,パリ・サロンにてコメンダトーレの名を冠するスペチアーレ,エンツォを発表することになります。 このエンツォのチーフデザイナーが当時ピニンファリーナに在籍していた日本人の奥山清行さんということは大変驚くところです。 また,同時期に同じフィアットグループである名門マセラティのクーペやスパイダーの開発にフェラーリのエンジニア達が深く関わっていたということも付記すべきでしょう。 思えば,フェラーリは1970年までは年間千台にも満たなかった生産数を1980年には約2500台,そして現在では年間4千台まで伸ばしています。 これもフィアットと提携した結果ともいえましょう。

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