まめしばミニチュアカーレポート
まめしば自動車研究所からのレポートです。画像をクリックすると拡大します。
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ホンダイズムの考察
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本田宗一郎氏の哲学
本田宗一郎 マンガ表紙
小学館「本田宗一郎」表紙

「人間も会社も脱皮しなければならない」と語っていたホンダ創始者の「オヤジさん」こと本田宗一郎氏は 子供の頃町で見かけたT型フォードに大きな刺激を受けたということです。 当時 父親の儀平さんは鍛冶屋を営みながら自転車の修理業を営んでいたので 既に後のバイク製造メーカーへの素地はできていたのかもしれません。「鼻黒の宗ちゃん」と呼ばれていた宗一郎氏は 将来 飛行機を飛ばすことを夢見ていました。 1917年5月20日 小学5年生の頃 アメリカ人パイロット アート・スミスの操縦するカーチス型複葉機のアクロバット飛行を見たことが 夢の始まりだったのでしょうか。 現在ではHondajetがその夢を叶えています。 その後15歳で丁稚奉公した先の名が偶然「アート商会」という一流自動車修理工場でした。 宗一郎氏は その社長 榊原郁三を「旦那」と呼びながら師として仰ぎ 仕事についての技術のみならず経営哲学全般を学びました。 入社翌年 榊原氏がレーシングカーの製作を始め自らハンドルを握ったとき 宗一郎氏はライディングメカニックを担いました。6年後には独立し「アート商会浜松支店」を立ち上げ大成功。自ら製作した「ハママツ号」で実弟と共にレースにも出場しています。「浜松のエジソン」という異名を持つ宗一郎氏は,無類の発明好きであったことは知られていますが 「アート商会浜松支店」を手放して ピストンリング製造業 東海精機重工業を立ち上げたとき 当時のトヨタ自動車や中島飛行機を主な納入先にするまでになります。 ところが太平洋戦争中の1942年 戦時産業統制令によって トヨタ自動車の子会社とされてしまうと 終戦後豊田自動織機に会社を丸ごと譲渡し 1946年「本田技術研究所」を設立。6号無線機発電用エンジンを自転車の補助エンジンとして搭載した「バタバタ」が大ヒットするのはこの年です。 その後A,B,C型自社製オリジナルエンジンの開発を経て,自転車のフレームがエンジンの馬力に耐えられないことを打開するために,D型からはフレームごと,即ちオートバイを製作するようになるのです。 それが「ドリームD型」。ホンダの累計生産台数を数える時の1台目となりました。 これ以降 ドリーム=夢はホンダのキーワードとなるのです。

本田宗一郎の考え方・見方 表紙
PHP研究所「本田宗一郎の見方・考え方」表紙

ホンダSシリーズは生産台数25,000台の内7割程が輸出され ハリウッドの大スター スティーブ・マックィーンもオーナーの1人でした。
4輪車として初めて大衆に受け入れられたのはN360で スバル360を生産台数でも安価でも抜く程の人気を博します。ドアの音にまでこだわった作りこみで31万3千円(スバル360のスタンダードが33万8千円)という値段は破格でした。 しかし,ユーザーユニオンが「 N360は時速80kmで走行中に蛇行する 」と批判し 告訴。 この一件は その後ホンダ側がユーザーユニオンを「 脅迫と強請 」で逆告訴し勝訴することで沈静化します。 この間 本田宗一郎氏を始めとして 社員は一切欠陥について釈明をしませんでした。 それは 実際に事故を起こした顧客を気遣ったためだったそうです。

ホンダの技術の陰にこの人あり!! 実は本田宗一郎氏の奥方 さちさんです。 例えば スーパーカブの開発のきっかけになったのが「 オートバイは油汚れが困る 」といった さちさんの言葉です。 エンジンが下方設置されチェーンカバーや泥除けが付いたスーパーカブC100は1958年にデビューしましたが なんとアメリカでも大ヒットするのです。 また 朝のおかずの卵焼きの焦げ目がないのに気付いた宗一郎氏がさちさんに焼き方を伝授してもらい それがCVCCエンジンの開発成功につながったと言われています。宗一郎氏は1991年8月5日に他界しましたが その直前 さちさんに背負って病室を1週してもらったというほどのおしどり夫婦ぶりでした。 職場=現場での厳格なおやじ振りからは想像できないことかもしれません。

ホンダの躍進
1954年に本田宗一郎氏が社員にマン島TTレース出場宣言を行なってから5年後の1959年にはチーム賞 1961年には125ccと250cc両部門で1位から5位独占 その翌年には350ccを加えた3部門で優勝を果たします。
4輪車部門では1963年にはS500toT360を発表し 翌年にはRA271でF1に参戦。 その翌年にはメキシコGPで念願の初優勝をしました。 この優勝には1957年入社の中村良夫氏の技術力が大きく影響していました。 というのも戦時中 中村氏は戦闘機エンジンの設計に携っており 希薄な空気による燃焼に大変詳しく メキシコGPが高高度のサーキットで行なわれたことで他チームを駆逐することができたということなのです。

さて CVCCエンジンの話ですが 開発に際してホンダはプロジェクトチームを2本立てにしていました。
1970年に米国でマスキー法が打ち出されると GMやフォードを含めた世界の各メーカーは触媒 すなわちフィルターによる排気ガス浄化のシステムの開発チームが作られました。 ホンダも例外ではありませんでしたが 触媒の開発に60人のスタッフを充てる一方で 7人を「 1・8グループ 」としてエンジン本体が出す排気ガス軽減の研究に従事させました。 そのグループ名は「 いちかばちか 」という意味からきており 「 ホンダの発展のためだけではなく世界で公害に苦しむ人々を救いたい 」という信念がCVCCエンジン開発を実現したのです。この「 1・8グループ 」の中心的エンジニアが後のF1総監督 桜井淑敏氏です。 このシビックの成功の裏で 「 ホンダの為だけ 」に邁進してきた宗一郎氏は もはや「 世界のホンダ 」にまで大きく育った会社を若手に委ねることを決心しました。 マスキー法の制定によって1度はF1から撤退したホンダは おやじさんが引退した後 2代目社長となった河島喜好(きよし)氏が中村氏と桜井氏に働きかけ 1984年から再挑戦することになります。 1986年にはドライバーズポイントは逃したもののコンストラクターズ総合優勝を果たし 翌年は念願の両タイトル優勝 その後1990年まではホンダのF1全盛期が続きます。 1991年8月5日 本田宗一郎氏は天に召されました。 葬儀は親族のみでしめやかに執り行われましたが 翌朝には本田家の前に多くの花束が手向けられていました。 また亡くなる少し前 宗一郎氏はさち夫人に背負われ病室を1周してもらうという甘え様だったとのことです。

2輪から4輪への進出

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Cub plastic

ホンダの代名詞とも言える「スーパーカブ」が発売されたのが1958年。この高性能50cc2輪車はノークラッチである上セルモーター搭載で誰でも運転できるバイクとして老若男女問わず需要を生み出して大ヒットしました。この成功がなかったら、ホンダは4輪へ進出できなかったと言われています。

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honda F1 plastic gurico china

1964年8月、まだ、4輪の世界では駆け出しだったホンダは、他のマシンより1オクターブ高い排気音から「ホンダミュージック」の異名を持つV12、1500cc横置きエンジンをゼッケン20番RA272に積みニュルブルクリンクF1GPで完走を果たしました。そして、翌年にはリッチー・ギンサーが駆るゼッケン11番RA272でメキシコGPで優勝を飾っています。

マン島レースでの2輪GPでの成功を知るホンダは、4輪もヨーロッパのメーカーと同じようにレースで名声を得てから車を売ろうとした点で、他の国産メーカーと一線を隔していました。当時、自動車業界では、例えばトヨタにしても日産にしても、先ずタクシー運転手に取材をし、クラウンやセドリックを開発、その後にコロナやブルーバードを出すという流れが常識的だった様です。三菱にいたっては、技術力に物を言わせ、とりあえず流行りそうな車をリリースする「車好きがいないメーカー」とモータージャーナリストの徳大寺有恒氏は著書の中でおっしゃっています。徳大寺氏によれば、ホンダ(実際には本田宗一郎氏)は「車が好きなメーカー」ということです。

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Honda S600 die-cast DyDo china 1:64

かくして、1962年、軽トラックのT360で4輪進出を果たしたホンダでしたが、その翌年にS500というオープン・スポーツをリリースしています。これは、東京モーターショーで話題を振り撒いたS360がパワー不足だったということで排気量をアップしての登場となったのですが(ちなみにS360のDOHCエンジンがT360に搭載されていました)、総アルミ製のAS型500ccエンジンで、675kgの車体を44馬力で引っ張りました。しかし、それでもパワー不足を否めなかったホンダは、翌年には100ccの排気量をプラスし57馬力まで引き上げたS600を発売。このときにはクローズド・ハッチバック・クーペもラインナップされました。排気量アップはこれに留まらず、1966年には更に200ccアップのS800にまで発展。70馬力のエンジンは最高速度160km、ゼロヨンにいたっては16.9秒をマークしています。また、ニュルブルクリンクにてS800を駆った生沢徹が、日本人ドライバーとして初めて表彰台に立ちました。

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Honda S800 plastic Furuta china

さて、話題の「チェーン・ドライブ」の話ですが、実はこの車にはFR車として常識的なプロペラシャフトもドライブシャフトも存在していて、その先にトレーリング・アームとしての役割も果たすチェーン内臓ケースを持っていたことから、「バイクの4輪車版」という噂が起った様です。デフから伸びたドライブシャフトで直接タイヤを駆動するのではなく、シャフト側、タイヤ側にそれぞれスプロケットを設けチェーンで駆動していました。そのカバー(ハウジング)がトレーリングアームの様に上下に動いたので、ちょうどカブを2台並行に並べたイメージがあったのでしょう。この「チェーン・ドライブ」も、加速時のリアの持ち上がりと振動を押さえる為に、1968年にオーソドックスなリジッド・アクスルに変更されました。最終型のS800Mは1970年まで生産が続けられました。

大衆車としてブレイク

真似を徹底的に嫌った本田宗一郎氏が、ローバーミニを真似(あるいは参考に)したという疑惑を今も残しているN360。F1での成功の下に、1967年に登場したN360は若者たちの心をつかんで大ヒットとなり、それまで主に2輪車の利益で経営が成り立っていたホンダを名実共に4輪新出へと導きました。

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N360 die-cast KONAMI china 1:64

その後もZ、ライフ、バモスを輩出しますが、厳しくなってきた排ガス規制に対応する為に軽自動車の生産を1974年に中止して、12年後のトゥディの登場まで沈黙を守ります。ところで、そのN360には、その後のホンダ車の特徴ともなる背が低く幅広い、サスペンションストロークが短く固いという評価の原因となるエピソードも伝えられています。N360は当時、よく横転事故を起こしたので、「欠陥車」の烙印を押され訴訟問問題にまで発展したという経緯があり、その後、開発陣が高重心でロールする車を恐れたということなのです。

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Z die-cast tomy japan 1:38

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Honda Z die-cast KONAMI china 1:64

NT360 VAMOS
TNⅢ360&VAMOS die-cast tomy japan 1:54

初の乗用車N360で成功を収めたホンダが次に手がけたのが1300クーペです。この車にはアルファロメオやアルピーヌを凌ぐ世界最強の1.3リッターを目指した強制空冷エンジンが搭載されていました。強制空冷とはエンジンの外殻の上に更に別の外殻が設けられていて、その隙間に空気を流して冷却するシステムのことで、当時のF1と同じ一体式二重構造を採用しており100~115psを発揮しました。しかし、他社が水冷エンジンを搭載している中で騒音などの問題から本田宗一郎の意志に反して後期モデルでは水冷化(排気量も1450ccへ変更)されます。

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Honda 1300 die-cast tomy japan 1:60

ホンダの4輪進出にだめ押しをしたのが、シビックの登場でした。そのネーミングは「シビルミニマム」から取ったもので、1974年の登場と共にたちまちヒットを飛ばし、やはり空前のヒット作となるアコードやプレリュードが派生します。かつてF1を「走る実験場」と呼んでいたホンダはシビックに搭載されたCVCCエンジンにもレーシングエンジンのノウハウを惜しみなく注ぎ込み「層状燃焼」を実現しています。考えてもみれば、コンパクトカーやミニバンでも先駆けとなったホンダの起源はスーパーカブですから、ホンダのスポーツ・マッチョ的なイメージとは裏腹に常に「日常の足」としての車作りに勤しんでいるというのが本来のホンダイズムなのでしょう。

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CIVIC die-cast tomy japan 1:42

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PRELUDE die-cast Diapet japan 1:40

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CIVIC COUNTRY die-cast tomy japan 1:59

2輪メーカーから出発したホンダは、自転車屋より若干規模が大きいだけの「モーター屋」で委託販売をしていただけでしたが、大人気のシビックのために長い行列ができたといいます。そして、この頃から、店頭販売を重視するメーカーとしても有名になり、後年トヨタのディーラーマンも視察に出かけた程でした。

傑作、ホンダシティへ

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HONDA CITY
ホンダイズムの結晶

モトコンポ チョコエッグ
CITY plastic furuta china

CITY トミカ
CITY die-cast tomy japan 1:57

私が愛して止まない車にホンダシティがあります。今となっては普通となった「トールボーイ」というパッケージングを1981年に提案したという点でも注目すべきですが、日本人の日常生活における「モビリティ」を反映した自動車としても高く評価できるのではないでしょうか。

CITY トミカ 後
CITY die-cast tomy japan 57

同時に発売されたシティのトランクに収納できるモトコンポというスクーターはハンドルが折りたたみ式で横倒ししても燃料、フルード類が漏れない設計となっている優れものでした。

Q シティ カブリオ

Q シティ

モトコンポ チョロQ
CITY plastic TAKARA china choroQ

モトコンポ 手のひら

モトコンポ 全集


この車の流れは2代目シティでは一旦途絶えたものの、その後を継ぐ様にデビューしたロゴに受け継がれます。ロゴの後を担ったフィットには「トールボーイ」の面影はなく、その名前の由来が物語る様に、2代目シティの後継といった感じですが、かろうじてフィットの派生車、モビリオには「トールボーイ」、あるいは「マン・マキシマム、メカ・ミニマム」の思想が見て採れます。もちろん、フィットの居住性も優れていますので、スタイリングを無視すれば、シティの哲学が具現化した車と考えることができます。

CITY カプセルトミカ
CITY plastic tomy china capsuletomica

CITY ターボ ヨネザワ

CITY ターボ ヨネザワ 前
CITY turbo die-cast Yonezawa(Diapet) japan 1:40

シティは82年にターボを加え、排気量は同じ1.2リッターながら馬力を67psから100psにアップさせています。

CITY ターボⅡ 白
CITY turbo Ⅱ die-cast tomy japan 1:57

翌年83年にはターボにインタークーラーを装備した「ターボⅡ(愛称ブルドッグ)」をリリースし110psを誇りました。

CITY 比較 横
CITY die-cast tomy blue(china) japan(silver) 1:57

その人気はトミカがシティの改良に伴って、54番のシティの金型を変えているところにも現れています。トミーでは83年のシティをターボ仕様、即ちボンネットの一部分に膨らみを持たせたものにし、翌84年にはフェンダーやボンネット全体を膨らませたターボⅡ仕様に変えています。

CITY ターボⅡ リミテッド 後
CITY turbo Ⅱ die-cast tomy china 1:57 limited

シャシー部分とインテリアは全く同じものにし、トランクには勿論、若干小振りではありますが、モトコンポも搭載されていました。

シティ コーヒー カブリオ
CITY open die-cast

尚シティにはハイルーフ(サンルーフも選べた)やカブリオレもラインナップされていますが、カブリオレはイタリアのピリンファリーナが手掛けたという点も特筆すべきでしょう。

初代シティは86年10月に2代目にバトンタッチしていますが、前年にデビューしたホンダ12年ぶりの軽自動車トゥディのスタイリングのままに、初代の「トールボーイ」とは正反対の「低く長め」の3ドアハッチバックとなりました。どちらかというと、こちらの方が「正統ホンダ車」といった感じですが、販売低迷の挙句94年に消滅してしまいます。その後を継ぐ形でデビューを飾ったロゴも実際には余り販売数を伸ばせず、1代限りで姿を消し、2001年にシティのサブネームであった「フィット」を名乗るコンパクトカーで空前のヒットを見せることになります。しかし、ロゴのスタイリングは初代シティに回帰した雰囲気がある一方で、他社のコンパクトカーデザインに大きな影響を与えたことは確かです。トヨタヴィッツがヤリスという名でヨーロッパで発表された時、ホンダの偵察者が「あっ、ロゴだ」と叫んだというエピソードもある程です。

Q 愛車
LOGO & TODAY plastic takara china

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プルバック・カーで楽しむホンダ車たち
Q S800
S800 plastic takara taiwan (右:’68 鈴鹿12時間耐久レースGT-1クラス優勝車)

マルカ S比較
Sシリーズ plastic Maruka china

マルカ S比較 リア
Sシリーズ plastic Maruka china

Q T360
T360 plastic takara china

Q N360
N360 plastic takara china

Q Z
Z plastic takara china

Q TNⅢ
TN360 plastic takara china

Q シティ
CITY plastic takara taiwan

Q モトコンポ
※チョロQにはモトコンポがオマケで付いてます。

Q シティ カブリオ
CITY plastic takara china

NSX
NSX plastic mobil china

Q NSX
NSX plastic takara china

Q ビート
BEAT plastic takara china

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ホンダイズム HONDAISM
2輪から4輪への進出

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Cub plastic

ホンダの代名詞とも言える「スーパーカブ」が発売されたのが1958年。この高性能50cc2輪車はノークラッチである上セルモーター搭載で誰でも運転できるバイクとして老若男女問わず需要を生み出して大ヒットしました。この成功がなかったら、ホンダは4輪へ進出できなかったと言われています。

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honda F1 plastic gurico china

1964年8月、まだ、4輪の世界では駆け出しだったホンダは、他のマシンより1オクターブ高い排気音から「ホンダミュージック」の異名を持つV12、1500cc横置きエンジンをゼッケン20番RA272に積みニュルブルクリンクF1GPで完走を果たしました。そして、翌年にはリッチー・ギンサーが駆るゼッケン11番RA272でメキシコGPで優勝を飾っています。

マン島レースでの2輪GPでの成功を知るホンダは、4輪もヨーロッパのメーカーと同じようにレースで名声を得てから車を売ろうとした点で、他の国産メーカーと一線を隔していました。当時、自動車業界では、例えばトヨタにしても日産にしても、先ずタクシー運転手に取材をし、クラウンやセドリックを開発、その後にコロナやブルーバードを出すという流れが常識的だった様です。三菱にいたっては、技術力に物を言わせ、とりあえず流行りそうな車をリリースする「車好きがいないメーカー」とモータージャーナリストの徳大寺有恒氏は著書の中でおっしゃっています。徳大寺氏によれば、ホンダ(実際には本田宗一郎氏)は「車が好きなメーカー」ということです。

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Honda S600 die-cast DyDo china 1:64

かくして、1962年、軽トラックのT360で4輪進出を果たしたホンダでしたが、その翌年にS500というオープン・スポーツをリリースしています。これは、東京モーターショーで話題を振り撒いたS360がパワー不足だったということで排気量をアップしての登場となったのですが(ちなみにS360のDOHCエンジンがT360に搭載されていました)、総アルミ製のAS型500ccエンジンで、675kgの車体を44馬力で引っ張りました。しかし、それでもパワー不足を否めなかったホンダは、翌年には100ccの排気量をプラスし57馬力まで引き上げたS600を発売。このときにはクローズド・ハッチバック・クーペもラインナップされました。排気量アップはこれに留まらず、1966年には更に200ccアップのS800にまで発展。70馬力のエンジンは最高速度160km、ゼロヨンにいたっては16.9秒をマークしています。また、ニュルブルクリンクにてS800を駆った生沢徹が、日本人ドライバーとして初めて表彰台に立ちました。

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Honda S800 plastic Furuta china

さて、話題の「チェーン・ドライブ」の話ですが、実はこの車にはFR車として常識的なプロペラシャフトもドライブシャフトも存在していて、その先にトレーリング・アームとしての役割も果たすチェーン内臓ケースを持っていたことから、「バイクの4輪車版」という噂が起った様です。デフから伸びたドライブシャフトで直接タイヤを駆動するのではなく、シャフト側、タイヤ側にそれぞれスプロケットを設けチェーンで駆動していました。そのカバー(ハウジング)がトレーリングアームの様に上下に動いたので、ちょうどカブを2台並行に並べたイメージがあったのでしょう。この「チェーン・ドライブ」も、加速時のリアの持ち上がりと振動を押さえる為に、1968年にオーソドックスなリジッド・アクスルに変更されました。最終型のS800Mは1970年まで生産が続けられました。

大衆車としてブレイク

真似を徹底的に嫌った本田宗一郎氏が、ローバーミニを真似(あるいは参考に)したという疑惑を今も残しているN360。F1での成功の下に、1967年に登場したN360は若者たちの心をつかんで大ヒットとなり、それまで主に2輪車の利益で経営が成り立っていたホンダを名実共に4輪新出へと導きました。

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N360 die-cast KONAMI china 1:64

その後もZ、ライフ、バモスを輩出しますが、厳しくなってきた排ガス規制に対応する為に軽自動車の生産を1974年に中止して、12年後のトゥディの登場まで沈黙を守ります。ところで、そのN360には、その後のホンダ車の特徴ともなる背が低く幅広い、サスペンションストロークが短く固いという評価の原因となるエピソードも伝えられています。N360は当時、よく横転事故を起こしたので、「欠陥車」の烙印を押され訴訟問問題にまで発展したという経緯があり、その後、開発陣が高重心でロールする車を恐れたということなのです。

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Z die-cast tomy japan 1:38

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Honda Z die-cast KONAMI china 1:64

NT360 VAMOS
TNⅢ360&VAMOS die-cast tomy japan 1:54

初の乗用車N360で成功を収めたホンダが次に手がけたのが1300クーペです。この車にはアルファロメオやアルピーヌを凌ぐ世界最強の1.3リッターを目指した強制空冷エンジンが搭載されていました。強制空冷とはエンジンの外殻の上に更に別の外殻が設けられていて、その隙間に空気を流して冷却するシステムのことで、当時のF1と同じ一体式二重構造を採用しており100~115psを発揮しました。しかし、他社が水冷エンジンを搭載している中で騒音などの問題から本田宗一郎の意志に反して後期モデルでは水冷化(排気量も1450ccへ変更)されます。

CA330365 (2)
Honda 1300 die-cast tomy japan 1:60

ホンダの4輪進出にだめ押しをしたのが、シビックの登場でした。そのネーミングは「シビルミニマム」から取ったもので、1974年の登場と共にたちまちヒットを飛ばし、やはり空前のヒット作となるアコードやプレリュードが派生します。かつてF1を「走る実験場」と呼んでいたホンダはシビックに搭載されたCVCCエンジンにもレーシングエンジンのノウハウを惜しみなく注ぎ込み「層状燃焼」を実現しています。考えてもみれば、コンパクトカーやミニバンでも先駆けとなったホンダの起源はスーパーカブですから、ホンダのスポーツ・マッチョ的なイメージとは裏腹に常に「日常の足」としての車作りに勤しんでいるというのが本来のホンダイズムなのでしょう。

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CIVIC die-cast tomy japan 1:42

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PRELUDE die-cast Diapet japan 1:40

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CIVIC COUNTRY die-cast tomy japan 1:59

2輪メーカーから出発したホンダは、自転車屋より若干規模が大きいだけの「モーター屋」で委託販売をしていただけでしたが、大人気のシビックのために長い行列ができたといいます。そして、この頃から、店頭販売を重視するメーカーとしても有名になり、後年トヨタのディーラーマンも視察に出かけた程でした。

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