まめしばミニチュアカーレポート
まめしば自動車研究所からのレポートです。画像をクリックすると拡大します。
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ホンダイズムの考察
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本田宗一郎氏の哲学
本田宗一郎 マンガ表紙
小学館「本田宗一郎」表紙

「人間も会社も脱皮しなければならない」と語っていたホンダ創始者の「オヤジさん」こと本田宗一郎氏は 子供の頃町で見かけたT型フォードに大きな刺激を受けたということです。 当時 父親の儀平さんは鍛冶屋を営みながら自転車の修理業を営んでいたので 既に後のバイク製造メーカーへの素地はできていたのかもしれません。「鼻黒の宗ちゃん」と呼ばれていた宗一郎氏は 将来 飛行機を飛ばすことを夢見ていました。 1917年5月20日 小学5年生の頃 アメリカ人パイロット アート・スミスの操縦するカーチス型複葉機のアクロバット飛行を見たことが 夢の始まりだったのでしょうか。 現在ではHondajetがその夢を叶えています。 その後15歳で丁稚奉公した先の名が偶然「アート商会」という一流自動車修理工場でした。 宗一郎氏は その社長 榊原郁三を「旦那」と呼びながら師として仰ぎ 仕事についての技術のみならず経営哲学全般を学びました。 入社翌年 榊原氏がレーシングカーの製作を始め自らハンドルを握ったとき 宗一郎氏はライディングメカニックを担いました。6年後には独立し「アート商会浜松支店」を立ち上げ大成功。自ら製作した「ハママツ号」で実弟と共にレースにも出場しています。「浜松のエジソン」という異名を持つ宗一郎氏は,無類の発明好きであったことは知られていますが 「アート商会浜松支店」を手放して ピストンリング製造業 東海精機重工業を立ち上げたとき 当時のトヨタ自動車や中島飛行機を主な納入先にするまでになります。 ところが太平洋戦争中の1942年 戦時産業統制令によって トヨタ自動車の子会社とされてしまうと 終戦後豊田自動織機に会社を丸ごと譲渡し 1946年「本田技術研究所」を設立。6号無線機発電用エンジンを自転車の補助エンジンとして搭載した「バタバタ」が大ヒットするのはこの年です。 その後A,B,C型自社製オリジナルエンジンの開発を経て,自転車のフレームがエンジンの馬力に耐えられないことを打開するために,D型からはフレームごと,即ちオートバイを製作するようになるのです。 それが「ドリームD型」。ホンダの累計生産台数を数える時の1台目となりました。 これ以降 ドリーム=夢はホンダのキーワードとなるのです。

本田宗一郎の考え方・見方 表紙
PHP研究所「本田宗一郎の見方・考え方」表紙

ホンダSシリーズは生産台数25,000台の内7割程が輸出され ハリウッドの大スター スティーブ・マックィーンもオーナーの1人でした。
4輪車として初めて大衆に受け入れられたのはN360で スバル360を生産台数でも安価でも抜く程の人気を博します。ドアの音にまでこだわった作りこみで31万3千円(スバル360のスタンダードが33万8千円)という値段は破格でした。 しかし,ユーザーユニオンが「 N360は時速80kmで走行中に蛇行する 」と批判し 告訴。 この一件は その後ホンダ側がユーザーユニオンを「 脅迫と強請 」で逆告訴し勝訴することで沈静化します。 この間 本田宗一郎氏を始めとして 社員は一切欠陥について釈明をしませんでした。 それは 実際に事故を起こした顧客を気遣ったためだったそうです。

ホンダの技術の陰にこの人あり!! 実は本田宗一郎氏の奥方 さちさんです。 例えば スーパーカブの開発のきっかけになったのが「 オートバイは油汚れが困る 」といった さちさんの言葉です。 エンジンが下方設置されチェーンカバーや泥除けが付いたスーパーカブC100は1958年にデビューしましたが なんとアメリカでも大ヒットするのです。 また 朝のおかずの卵焼きの焦げ目がないのに気付いた宗一郎氏がさちさんに焼き方を伝授してもらい それがCVCCエンジンの開発成功につながったと言われています。宗一郎氏は1991年8月5日に他界しましたが その直前 さちさんに背負って病室を1週してもらったというほどのおしどり夫婦ぶりでした。 職場=現場での厳格なおやじ振りからは想像できないことかもしれません。

ホンダの躍進
1954年に本田宗一郎氏が社員にマン島TTレース出場宣言を行なってから5年後の1959年にはチーム賞 1961年には125ccと250cc両部門で1位から5位独占 その翌年には350ccを加えた3部門で優勝を果たします。
4輪車部門では1963年にはS500toT360を発表し 翌年にはRA271でF1に参戦。 その翌年にはメキシコGPで念願の初優勝をしました。 この優勝には1957年入社の中村良夫氏の技術力が大きく影響していました。 というのも戦時中 中村氏は戦闘機エンジンの設計に携っており 希薄な空気による燃焼に大変詳しく メキシコGPが高高度のサーキットで行なわれたことで他チームを駆逐することができたということなのです。

さて CVCCエンジンの話ですが 開発に際してホンダはプロジェクトチームを2本立てにしていました。
1970年に米国でマスキー法が打ち出されると GMやフォードを含めた世界の各メーカーは触媒 すなわちフィルターによる排気ガス浄化のシステムの開発チームが作られました。 ホンダも例外ではありませんでしたが 触媒の開発に60人のスタッフを充てる一方で 7人を「 1・8グループ 」としてエンジン本体が出す排気ガス軽減の研究に従事させました。 そのグループ名は「 いちかばちか 」という意味からきており 「 ホンダの発展のためだけではなく世界で公害に苦しむ人々を救いたい 」という信念がCVCCエンジン開発を実現したのです。この「 1・8グループ 」の中心的エンジニアが後のF1総監督 桜井淑敏氏です。 このシビックの成功の裏で 「 ホンダの為だけ 」に邁進してきた宗一郎氏は もはや「 世界のホンダ 」にまで大きく育った会社を若手に委ねることを決心しました。 マスキー法の制定によって1度はF1から撤退したホンダは おやじさんが引退した後 2代目社長となった河島喜好(きよし)氏が中村氏と桜井氏に働きかけ 1984年から再挑戦することになります。 1986年にはドライバーズポイントは逃したもののコンストラクターズ総合優勝を果たし 翌年は念願の両タイトル優勝 その後1990年まではホンダのF1全盛期が続きます。 1991年8月5日 本田宗一郎氏は天に召されました。 葬儀は親族のみでしめやかに執り行われましたが 翌朝には本田家の前に多くの花束が手向けられていました。 また亡くなる少し前 宗一郎氏はさち夫人に背負われ病室を1周してもらうという甘え様だったとのことです。

2輪から4輪への進出

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Cub plastic

ホンダの代名詞とも言える「スーパーカブ」が発売されたのが1958年。この高性能50cc2輪車はノークラッチである上セルモーター搭載で誰でも運転できるバイクとして老若男女問わず需要を生み出して大ヒットしました。この成功がなかったら、ホンダは4輪へ進出できなかったと言われています。

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honda F1 plastic gurico china

1964年8月、まだ、4輪の世界では駆け出しだったホンダは、他のマシンより1オクターブ高い排気音から「ホンダミュージック」の異名を持つV12、1500cc横置きエンジンをゼッケン20番RA272に積みニュルブルクリンクF1GPで完走を果たしました。そして、翌年にはリッチー・ギンサーが駆るゼッケン11番RA272でメキシコGPで優勝を飾っています。

マン島レースでの2輪GPでの成功を知るホンダは、4輪もヨーロッパのメーカーと同じようにレースで名声を得てから車を売ろうとした点で、他の国産メーカーと一線を隔していました。当時、自動車業界では、例えばトヨタにしても日産にしても、先ずタクシー運転手に取材をし、クラウンやセドリックを開発、その後にコロナやブルーバードを出すという流れが常識的だった様です。三菱にいたっては、技術力に物を言わせ、とりあえず流行りそうな車をリリースする「車好きがいないメーカー」とモータージャーナリストの徳大寺有恒氏は著書の中でおっしゃっています。徳大寺氏によれば、ホンダ(実際には本田宗一郎氏)は「車が好きなメーカー」ということです。

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Honda S600 die-cast DyDo china 1:64

かくして、1962年、軽トラックのT360で4輪進出を果たしたホンダでしたが、その翌年にS500というオープン・スポーツをリリースしています。これは、東京モーターショーで話題を振り撒いたS360がパワー不足だったということで排気量をアップしての登場となったのですが(ちなみにS360のDOHCエンジンがT360に搭載されていました)、総アルミ製のAS型500ccエンジンで、675kgの車体を44馬力で引っ張りました。しかし、それでもパワー不足を否めなかったホンダは、翌年には100ccの排気量をプラスし57馬力まで引き上げたS600を発売。このときにはクローズド・ハッチバック・クーペもラインナップされました。排気量アップはこれに留まらず、1966年には更に200ccアップのS800にまで発展。70馬力のエンジンは最高速度160km、ゼロヨンにいたっては16.9秒をマークしています。また、ニュルブルクリンクにてS800を駆った生沢徹が、日本人ドライバーとして初めて表彰台に立ちました。

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Honda S800 plastic Furuta china

さて、話題の「チェーン・ドライブ」の話ですが、実はこの車にはFR車として常識的なプロペラシャフトもドライブシャフトも存在していて、その先にトレーリング・アームとしての役割も果たすチェーン内臓ケースを持っていたことから、「バイクの4輪車版」という噂が起った様です。デフから伸びたドライブシャフトで直接タイヤを駆動するのではなく、シャフト側、タイヤ側にそれぞれスプロケットを設けチェーンで駆動していました。そのカバー(ハウジング)がトレーリングアームの様に上下に動いたので、ちょうどカブを2台並行に並べたイメージがあったのでしょう。この「チェーン・ドライブ」も、加速時のリアの持ち上がりと振動を押さえる為に、1968年にオーソドックスなリジッド・アクスルに変更されました。最終型のS800Mは1970年まで生産が続けられました。

大衆車としてブレイク

真似を徹底的に嫌った本田宗一郎氏が、ローバーミニを真似(あるいは参考に)したという疑惑を今も残しているN360。F1での成功の下に、1967年に登場したN360は若者たちの心をつかんで大ヒットとなり、それまで主に2輪車の利益で経営が成り立っていたホンダを名実共に4輪新出へと導きました。

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N360 die-cast KONAMI china 1:64

その後もZ、ライフ、バモスを輩出しますが、厳しくなってきた排ガス規制に対応する為に軽自動車の生産を1974年に中止して、12年後のトゥディの登場まで沈黙を守ります。ところで、そのN360には、その後のホンダ車の特徴ともなる背が低く幅広い、サスペンションストロークが短く固いという評価の原因となるエピソードも伝えられています。N360は当時、よく横転事故を起こしたので、「欠陥車」の烙印を押され訴訟問問題にまで発展したという経緯があり、その後、開発陣が高重心でロールする車を恐れたということなのです。

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Z die-cast tomy japan 1:38

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Honda Z die-cast KONAMI china 1:64

NT360 VAMOS
TNⅢ360&VAMOS die-cast tomy japan 1:54

初の乗用車N360で成功を収めたホンダが次に手がけたのが1300クーペです。この車にはアルファロメオやアルピーヌを凌ぐ世界最強の1.3リッターを目指した強制空冷エンジンが搭載されていました。強制空冷とはエンジンの外殻の上に更に別の外殻が設けられていて、その隙間に空気を流して冷却するシステムのことで、当時のF1と同じ一体式二重構造を採用しており100~115psを発揮しました。しかし、他社が水冷エンジンを搭載している中で騒音などの問題から本田宗一郎の意志に反して後期モデルでは水冷化(排気量も1450ccへ変更)されます。

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Honda 1300 die-cast tomy japan 1:60

ホンダの4輪進出にだめ押しをしたのが、シビックの登場でした。そのネーミングは「シビルミニマム」から取ったもので、1974年の登場と共にたちまちヒットを飛ばし、やはり空前のヒット作となるアコードやプレリュードが派生します。かつてF1を「走る実験場」と呼んでいたホンダはシビックに搭載されたCVCCエンジンにもレーシングエンジンのノウハウを惜しみなく注ぎ込み「層状燃焼」を実現しています。考えてもみれば、コンパクトカーやミニバンでも先駆けとなったホンダの起源はスーパーカブですから、ホンダのスポーツ・マッチョ的なイメージとは裏腹に常に「日常の足」としての車作りに勤しんでいるというのが本来のホンダイズムなのでしょう。

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CIVIC die-cast tomy japan 1:42

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PRELUDE die-cast Diapet japan 1:40

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CIVIC COUNTRY die-cast tomy japan 1:59

2輪メーカーから出発したホンダは、自転車屋より若干規模が大きいだけの「モーター屋」で委託販売をしていただけでしたが、大人気のシビックのために長い行列ができたといいます。そして、この頃から、店頭販売を重視するメーカーとしても有名になり、後年トヨタのディーラーマンも視察に出かけた程でした。

傑作、ホンダシティへ

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夢のスーパーカー
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(1) 私とフェラーリ

フェラーリとの出会いというのは,私の人生の中で3度あります。 最初の出会いは小学生の頃,もちろん,かの「 スーパーカー・ブーム 」においてです。 しかし,当時私にとって最もセンセーショナルだったのはミウラ,イオタ,カウンタックとの出会いの方で,フェラーリはランボルギーニに比べると存在感の薄いものでした。

2度目の出会いは,1995年,たまたまTVで見たF1レース。 ミハエル・シューマッハとの出会いと共に,私はF1とフェラーリの世界にのめり込んでいったのです。  一大ブームが巻き起こった1980年代には特にF1に関心がなかったのですが,偶然目に留まったシューマッハの走りはインパクトが強く,心から「 凄いな 」と思いました。 私がティフォジ(フェラーリ狂)になったのは,この27歳の時で,シューマッハの走りによって様々な意味で勇気を与えられ,それと共にフェラーリのミニカーを収集し始めた経緯もあります。

NEWS WEEK シューマッハ

そして,まだミニカー収集を始めたばかりの頃,こんなエピソードもありました。
ある日,職場で,同じ趣味を持つある同僚と最近手に入れたミニカーの話で盛り上がっていると,そこにいらっしゃったお得意先の方が話に割り込んできて,
「 F40,持ってらっしゃるんですか? 私,最近,F348を手に入れましてね。 」
「 えぇ,F40は玉数が少ないですからね。 見つけるのに苦労しましたよ。 」
「 そうでしょう。 私も,できたらF40が欲しいんですよね。 是非今度乗せてください。 」
「 ・・・乗せて・・・?? 」
そうなのです。 実は,その方は,列記としたリアル・フェラーリ・オーナー。 しかも,ミハエル・シューマッハのF1デビューマシン( まさか,日本にあるとは・・・! )まで保有している大富豪だったのです。 どうやら,私たちのミニカー談義をリアルマシンの話と勘違いしたらしく,それがきっかけで知り合いになりました。 その方は,他にもランボルギーニ・ディアブロもお持ちで,ガレージまで招待していただき,エンジンのかかったマシン達のコックピットにまで座らせてくれたのです。
 

自動車図鑑 シューマッハ等
三郷

しかも,ベルギーGP直後( ジョーダンはそれほど金策にこまっていたのでしょうか ),まだシューマッハが有名になる前ということで,わずか\700万ほどで競り落としたという,緑色のフォーミュラーマシン。 その方との出会いも運命なら,それは,ミハエル・シューマッハが引き寄せたものと信じざるを得ませんでした。 

三郷4

残念ながら,そのフォーミュラマシンは赤いフェラーリではありませんでしたが,F348のコックピットやエギゾーストノートを間近に体感するチャンスが持てたということで,決定的な出会い・・・フェラーリとの3度目の出会いとなりました。 実は,その時に,「 Ferrari Club Japan 」の公式ステッカーを2枚いただき,その1枚を長男のペダルカーに貼らせていただいているのです。

三郷2

秀馬のフェラーリ

フェラーリ 秀馬

私の長男の名前は「 秀馬 」といいます。 これには,フェラーリの「 跳ね馬 」のイメージ,「 優れ秀でた馬=フェラーリマシン 」のイメージ,「 シューマッハ 」という音声的イメージを込めたのです。 特にF1ドライバーにしようという意図( 希望はありますがw )はないのですが,ミハエル・シューマッハの様に,そしてフェラーリマシンの様に,世界で唯一無二の存在となって欲しい,そして,私が勇気づけられた様に,人々に何かを与えられる様な存在となって欲しいという願いを込めたのです。 
私は実際にフェラーリを所有しようとは思いません。 それは,私の「 無理は無駄 」というライフスタイルを否定することになってしまうからです。 まぁ,いわゆる「 負け惜しみ 」なのですが,ミニカーを眺めているだけで十分です。 夢の世界の車なのですから,そのくらいの距離を置いていていいと思うのです。 ( 2008年7月現在 )308GTBなら,確かに¥300万弱の相場で手に入るので現実的なのですが,実際に所有して長く付き合っていった場合,短所を知った時に果たして愛しつづけられるか自信がありません。 私は,自分がそのくらい意気地のない人間であることを知っているのです。 夢は夢のまま取っておくことも大切ではないでしょうか。 ですから,無論,子供に対しても無理な夢を押し付けるつもりはありません。 ただ,フェラーリマシンが,甲高いエギゾーストノートを響かせながら疾走する様に,息子にも人生を精一杯,一生懸命に生きていって欲しいとだけ思っています。



(2) フェラーリとは何か

 コメンダトーレ(創設者)・エンツォ・フェラーリは,第一次世界大戦後アルファロメオに入社し,テストドライバーを経て,1929年,アルファロメオ社から独立したワークスチーム,「 スクーデリア・フェラーリ 」を組織すると,1930年から37年までの8シーズンをオーナーとして主宰しました。 しかし,アルファロメオの経営方針の変更により,ワークスチームが会社直属の「 アルファ・コルセ 」になった1938年に退社しています。 また,このときの契約により5年間はレース活動を停止しなければなりませんでした。 そして,第二次世界大戦後,マラネロでチームを再結成し,1947年,フェラーリとして最初のオリジナルレースカー,ティーポ125をデヴューさせています。 この車の開発の際,V12を選択した理由として,当時既に出来上がっていた,4気筒=マセラティ,6気筒=ERA( 英国 ),8気筒=アルファロメオという図式の中で10気筒か12気筒を考えたのだろうということと,多気筒化によるエンジンの信頼性の向上を狙ったのだろうということが考えられます。 ティーポ125は,各シリンダーの排気量が125cc,即ち1500cc,60度V12という小排気量エンジンでしたが,スーパーチャージャーにより他の大排気量車と同等のパワーを誇っていました。 しかし,NAエンジンへの移行を果たしたティーポ375では4500ccまで拡大されています。 やがて,フェラーリは「 レーシング資金を確保する 」為に,1948年からストラダーレ( ロードカー )作りを開始しました。 1960年には名称をSEFACに変更し,1969年に経営権の半分をフィアットに譲渡すると,ロードカーの製作の一切を任せ,SEFACはレースに専念することになります。70年代初頭までFRに拘りつづけたフェラーリは,伝統のV12エンジンシリーズを250,275,365と発展させていますが,この数字の意味はフォーミュラマシン同様に1シリンダー当たりの排気量となっていますので,それは3リッター,3.3リッター,4.4リッターという大排気量化の歴史でもありました。 フィアットとの共同経営の下,フェラーリのストラダーレには2つの系統が生まれることになります。 ティーポ125以来伝統となったV12エンジン搭載トップモデルであり,最後のFRベルリネッタとなった365GTB/4ディトナ( 1967年,ディトナ24時間で1~3位独占を記念して名付けられました。 )に加え,エンツォ最愛の息子アルフレッドが生前開発に携ったというF2用エンジン,65度V6の流れを汲む2リッターエンジンをリアにミッドシップする,ロードカーとしてはフェラーリ初のMRモデルとされる,ディーノ206GTが登場するのです。 1967年に登場した206ですが,やはりフォーミュラマシン同様に数字の前が排気量,後が気筒数を表すもうひとつの形式( この場合2リッター・6気筒エンジン )が採用されています。
 アルフレッドは1932年1月19日,エンツォと細君ラウラとの間に誕生しますが,既に亡くなっていたエンツォの兄にちなんで名付けられた為に,「 アルフレッド・ディーノ( 小さなアルフレッド ) 」と呼ばれていました。アルフレッドは筋ジストロフィによる腎不全の為1956年6月30日に24歳という若さで天に召されました・・・。 亡き息子アルフレッドを思う父が,小さなフェラーリにそのニックネーム「 ディーノ 」と命名しているところに切なさを感じてしまうのは,私だけではないはずです。 エンツォは「 V12を積む 」ことをフェラーリの条件としたために,「 ディーノはフェラーリではない 」という定説が出来上がりましたが,実は亡き息子アルフレッドのメモリアルとして,フェラーリから生まれた直系の子供であるディーノというブランドを立ち上げたというのが正しいところでしょう。 それは,当時のフェラーリV6のカムカバーやディーノの車体にアルフレッドのサインが鋳造で描かれていたことからも明らかではないでしょうか。
1969年のジュネーブショーでは,2.4リッターにスケールアップしたディーノ246GTが発表されます。見た目に変化はなかったのですが,ボディとシリンダーブロックがアルミからスチールに変更されていました。V12とV6,この2つの系統のデザインは共にピニンファリーナが担当し、その後もフェラーリといえばピニンファリーナという関係ができあがり,それはユーザーの間にも浸透していった様です。

・365GTB/4 ディトナ 72年からリトラクタブルライトに変更
・ディーノ246F1( 1957~58 ):2.4リッター6気筒
・フェラーリ ティーポ156( 1961~62 )“ シャークノーズ”:1.5リッター 120度V6
 この車からエンジンがドライバーの後ろに搭載された。
 このマシンのドライバーに後にホンダのドライバーを務めるリチャード( リッチー )・ギンサー
 このマシンをモチーフにしたデザインが,2005年登場の量産型ストラダーレF430に用いられている

(3) ディーノエンジンの絆とデザイナーたちの確執

ところで,ここであえて「 フェラーリ 」を名乗らなかったディーノ206GT・246GTにまつわる逸話を紹介します。 先ず,共同経営者となったフィアットですが,F2エンジンの「 連続する12ヶ月間に500台以上生産すること 」というFIA規定( ホモロゲーション )を満たす為に,この2リッターエンジンをフェラーリに先駆け搭載したディーノスパイダーと,いすゞ117クーペをほうふつとさせるディーノクーペーをリリースしているのです。 両方とも販売的には成功しなかったモデルといわれながらも,最終的にはスパイダーは約1500台,クーペは約6千台製造されました。また,2.4リッターに拡大したディーノエンジンが,その素性の良さ( 元々レースのホモロゲ用であったということ。 そして,60度角が一般的なV型エンジンで65度角を採用し低重心化に貢献していたこと。 )から,1974年にはラリーで勝つことだけを目指して設計されたランチア・ストラトスに搭載されることになります。 私も大好きな,このストラトスのフォルムは非常に美しく,最近になってもレプリカが製造されつづけているほどです。 それまでFF方式でラリーの世界に君臨していたフルビアHF( 1966~73 )の後継として登場したストラトスなのですが、一見すると初代日産シルビア似のフルビア( 名前も似ていますw )クーペ( 1965~76 )とは全く異なるコンセプトであるのは一目瞭然です。 ストラトスは1974年から3年連続でランチアにタイトルをもたらしました。 さて,ここでお話した3台,フェラーリ・ディーノ,フィアット・ディーノ,ランチア・ストラトスの登場の裏に隠されたデザイナーの戦いも忘れてはなりません。 フェラーリの専属と言っても過言ではないピニンファリーナはディーノとディーノスパイダー,フェラーリユーザーからは冷遇されたベルトーネがディーノクーペとストラトスを担当していたというのも面白いとは思いませんか。 実は,このデザイナー達の死闘はもうひとつの形でも行なわれています。

(4) ランボルギーニの台頭

 農業用トラクターの製造等で一財を成したフェルッチオ・ランボルギーニは元々フェラーリのオーナーだったのですが,フェラーリ車についての自分のアドバイスがエンツォから無視されたことに腹を立てたことから車造りを始め,プロダクションモデルとしてはフェラーリに先駆けてV12DOHCを搭載する350GTを1964年に発表してしまうのです。 そして,やはりフェラーリ( レースカーではフェラーリの250LMはMRでした )よりも早くV12をミッドシップしたミウラを1966年に発表し,その名声を不動のものとします。 実は,このランボルギーニのデザインに携っていたのがベルトーネだったのです。このミウラにはイオタという亡霊も付きまとうのですが,1971年発表のカウンタックに引き継ぐまで,ランボルギーニの黄金時代を築きました。 カウンタック( ピエモンテ州の方言で驚きを表す感動詞 )が発表された年,ミウラの完成型400SV( SVとは「 より速くチューンされた 」という意味の句の頭文字を取ったものです。 またミウラとは,フェルッチオの知人の牧場の名前で,獰猛な闘牛を輩出していたことで有名です。 )もライト回りのまつげ状のグリルの廃止やノーズの変更を受けていました。 一方,フェルッチオには「 レース活動には一切手を出さない 」というポリシーがあったので,ランボルギーニのテストドライバー,ボブ・ウォレスが非公式に製作したマシンの名前がイオタだったのです。 この世界に1台しかないマシンの正式名称は「 ミウラ・コンペティシオーネ 」といい,FIA国際スポーツ法典附則J項に則って作られたので「 J(Jota) 」と呼ばれる様になったのです。 しかも,イオタは試験走行中にクラッシュで大破し消滅してしまいました。 この伝説のマシンに憧れた何人かの富豪がランボルギーニにミウラベースのイオタレプリカを作らせたこともあり神格化されていった経緯もあります。
ランボルギーニはミウラの他に,2+2のハラマ,4座のエスパーダ,2+2MRのウラッコ(シルエット)を1970年代に輩出してはいたものの,トラクター部門の失敗によって,カウンタックが発表された翌年の1972年にフェルッチオの経営権は完全に失われています。 その後,度々オーナーが変わり,BMWと提携してM1の共同開発なども行ないましたが,1978年には倒産し,1998年にVWの傘下に下り現在に至っております。 しかし,カウンタックは,市販が開始された1973年以来,その後継であるディアブロが登場する1990年までの17年間製造されています。 1973年にはプロトタイプのLP500( LPとは「 縦置き後ミッドシップ 」という意味の語句の頭文字を取ったもので,500は5リッターを意味します )を4リッターにスケールダウンしたLP400としていましたが,1978年には後輪のトレッドを広げオーバーフェンダーで武装さあせたLP400S,1982年にはLP500を復活させ,インパクトのあるウィングが奢られました( 実際には1975年に1台だけLP500Rなるものがワンオフで発表されています )。1985年には5000QV( 余りにも有名な「 クワトロバルボーレ( 4バルブ )の頭文字 」を発表。 最終的には1988年に25thアニバーサリーを発売しました。
さて,この経営失敗の陰で生まれた珍車も存在しています。 経営難から脱出すべくアラブマネーを狙って企画された「 チータ( LM001 ) 」がそれで,当初MRAWDでセンセーショナルに登場したものの,LM002ではエンジンをフロントに移し,結局はわずか23台だけしか販売されずランボルギーニの救世主にはなりませんでした。 昔,BIG ONEガムのオマケで,このチータをプラモデルで組み立てたことがありましたが,現在は手元にLM002のミニカーしかありません。 チータ( LM001 )はカッコ良かったのですが・・・,LM002ははっきり言って・・・。

(5) MRフェラーリ

 ランボルギーニに遅れること1973年,365GT4/BBが1970年に登場したF1マシン,312Bの流れを汲む180度V12をミッドシップして登場します 1976年には,その後継モデル512BBが登場し,この頃からV12搭載車についても前の数字が排気量,後の数字が気筒数を表す様になったので,この場合,5リッター12気筒ということになります。 365GT4/BBとの外観上の区別としては,512のサイドシル( ドアの下の部品 )にはランボルギーニカウンタックと同じNACA型ダクトが設けられており,テールランプも3連から2連に変更されている点が有名です。 ちなみに、BBとは「 ベルリネッタ( 小型スポーツクーペ ) 」と「 ボクサー( 180度V型エンジン=水平対抗エンジン ) 」を組み合わせたものです。 ちなみに,「 O 」はホモロゲーションを意味し,「 S 」はスパイダー,「 2+2 」または「 4 」は4人乗りを表します。 このマシンの流れが1984年登場のテスタロッサへとつながり,1992年の512TR,1995年のF512Mを輩出していきます。
一方,「 元祖ピッコロ・フェラーリ( 小さなフェラーリ ) 」,ディーノ246GTは,1973年,3リッター90度V8をミッドシップした308GT4にバトンを渡しますが,ベルトーネデザインのこの車はフェラーリ愛好家から不評を買った為,1975年にはピニンファリーナによる308GTB/GTSが登場し,ピッコロフェラーリとしてフェラーリのエンブレムを付けることを許されると共に,このシリーズはベストセラーとなります。この308のエンジンをグループBのホモロゲに合わせて2855ccに縮小しツインターボを搭載した288GTOは,フェラーリがグループAに移行することによって,レースで活躍することもなく,わずか272台のみが製造されるに留まりました。 その為このマシンはコレクターズアイテム化しましたが,3リッターに満たないエンジンは400ps/7000rpmを誇り,最高速度は305km/hまで及びました。このマシンは,その名の通り1962年デビューの250GTOの再来と謳われましたが, 250GTOはFRであり,レースでも1964年までの3年間,ワールドチャンピオンシップに輝いています。 伝統のピニンファリーナデザインとスカリエッティ( フェラーリ工房 )製作という点はおなじですが, テスタロッサ( 「 赤いヘッドカバー 」 )はエンジンに用いられておらず,僅か39台のみの製作となっています。

(6) 永遠なるキャバリーノ・ランパンテ( 跳ね馬 )

 1987年,エンツォ・フェラーリ最後のプロデュースとなる,478ps/7000rpm,最高速度324km/hを誇る,フェラーリ創立40周年スペチアーレF40が288GTOのV8DOHCを2936ccまで拡大し,日本のIHI製ターボチャージャーを2基備えたユニットを搭載して世に出ます。 これによって,フェラーリの起源が1947年発表のティーポ125であると初めて公言したエンツォは,その翌年8月14日に90歳で他界しますが, 1995年には,520ps/8500rpmと325km/hの最高速度を誇り「 公道を走るF1 」と謳われたF50が発表され,349台にV12DOHC60バルブエンジンが奢られたのです。 その最後の1台を1997年に出荷することで50周年を祝ったフェラーリは,2002年,パリ・サロンにてコメンダトーレの名を冠するスペチアーレ,エンツォを発表することになります。 このエンツォのチーフデザイナーが当時ピニンファリーナに在籍していた日本人の奥山清行さんということは大変驚くところです。 また,同時期に同じフィアットグループである名門マセラティのクーペやスパイダーの開発にフェラーリのエンジニア達が深く関わっていたということも付記すべきでしょう。 思えば,フェラーリは1970年までは年間千台にも満たなかった生産数を1980年には約2500台,そして現在では年間4千台まで伸ばしています。 これもフィアットと提携した結果ともいえましょう。

HONDA CITY
ホンダイズムの結晶

モトコンポ チョコエッグ
CITY plastic furuta china

CITY トミカ
CITY die-cast tomy japan 1:57

私が愛して止まない車にホンダシティがあります。今となっては普通となった「トールボーイ」というパッケージングを1981年に提案したという点でも注目すべきですが、日本人の日常生活における「モビリティ」を反映した自動車としても高く評価できるのではないでしょうか。

CITY トミカ 後
CITY die-cast tomy japan 57

同時に発売されたシティのトランクに収納できるモトコンポというスクーターはハンドルが折りたたみ式で横倒ししても燃料、フルード類が漏れない設計となっている優れものでした。

Q シティ カブリオ

Q シティ

モトコンポ チョロQ
CITY plastic TAKARA china choroQ

モトコンポ 手のひら

モトコンポ 全集


この車の流れは2代目シティでは一旦途絶えたものの、その後を継ぐ様にデビューしたロゴに受け継がれます。ロゴの後を担ったフィットには「トールボーイ」の面影はなく、その名前の由来が物語る様に、2代目シティの後継といった感じですが、かろうじてフィットの派生車、モビリオには「トールボーイ」、あるいは「マン・マキシマム、メカ・ミニマム」の思想が見て採れます。もちろん、フィットの居住性も優れていますので、スタイリングを無視すれば、シティの哲学が具現化した車と考えることができます。

CITY カプセルトミカ
CITY plastic tomy china capsuletomica

CITY ターボ ヨネザワ

CITY ターボ ヨネザワ 前
CITY turbo die-cast Yonezawa(Diapet) japan 1:40

シティは82年にターボを加え、排気量は同じ1.2リッターながら馬力を67psから100psにアップさせています。

CITY ターボⅡ 白
CITY turbo Ⅱ die-cast tomy japan 1:57

翌年83年にはターボにインタークーラーを装備した「ターボⅡ(愛称ブルドッグ)」をリリースし110psを誇りました。

CITY 比較 横
CITY die-cast tomy blue(china) japan(silver) 1:57

その人気はトミカがシティの改良に伴って、54番のシティの金型を変えているところにも現れています。トミーでは83年のシティをターボ仕様、即ちボンネットの一部分に膨らみを持たせたものにし、翌84年にはフェンダーやボンネット全体を膨らませたターボⅡ仕様に変えています。

CITY ターボⅡ リミテッド 後
CITY turbo Ⅱ die-cast tomy china 1:57 limited

シャシー部分とインテリアは全く同じものにし、トランクには勿論、若干小振りではありますが、モトコンポも搭載されていました。

シティ コーヒー カブリオ
CITY open die-cast

尚シティにはハイルーフ(サンルーフも選べた)やカブリオレもラインナップされていますが、カブリオレはイタリアのピリンファリーナが手掛けたという点も特筆すべきでしょう。

初代シティは86年10月に2代目にバトンタッチしていますが、前年にデビューしたホンダ12年ぶりの軽自動車トゥディのスタイリングのままに、初代の「トールボーイ」とは正反対の「低く長め」の3ドアハッチバックとなりました。どちらかというと、こちらの方が「正統ホンダ車」といった感じですが、販売低迷の挙句94年に消滅してしまいます。その後を継ぐ形でデビューを飾ったロゴも実際には余り販売数を伸ばせず、1代限りで姿を消し、2001年にシティのサブネームであった「フィット」を名乗るコンパクトカーで空前のヒットを見せることになります。しかし、ロゴのスタイリングは初代シティに回帰した雰囲気がある一方で、他社のコンパクトカーデザインに大きな影響を与えたことは確かです。トヨタヴィッツがヤリスという名でヨーロッパで発表された時、ホンダの偵察者が「あっ、ロゴだ」と叫んだというエピソードもある程です。

Q 愛車
LOGO & TODAY plastic takara china

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プルバック・カーで楽しむトヨタ車たち
Q ライトエース
TOYOACE plastic takara china choroQ

Q ランクル70
LANDCRUSER plastic takara taiwan choroQ

Q クラウン
CROWN plastic takara taiwan choroQ

Q 2000GT レーサー
2000GT plastic takara china chibikko choroQ

Q 2000GT
2000GT plastic takara taiwan choroQ

マルカ 2000GT

マルカ 2000GT リア
2000GT plastic Maruka china

Q ヨタハチ
S800 plastic takara taiwan choroQ

マルカ ヨタハチ
S800 plastic Maruka china circuitland

Q セリカ
CELICA plastic takara taiwan choroQ

Q セリカ レーサー
CELICA LB plastic takara china chibikko choroQ

マルカ セリカ
CELICA 1600GT plastic Maruka china

マルカ セリカLB
CELICA LB plastic Maruka china
マルカ セリカ比較


マルカ 2代目セリカ

マルカ 2代目セリカ リア
CELICA '77 plastic Maruka china

Q レビン
TE27 LEVIN plastic takara taiwan choroQ

Q トレノ
AE86 TRUENO plastic takara taiwan choroQ

Q スターレット
KP61 STARLET plastic takara taiwan choroQ

マルカ MR2
MR2 plastic Maruka china circuitland

Q 70マークⅡ
GX71 MARKⅡ plastic takara taiwan choroQ

マルカ ソアラ


マルカ ソアラ リア
SOARER plastic Maruka china

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ミニチュアカーと私
Q 愛車
チョロQで揃えた私の愛車たち 左からロゴとトゥディ、手前はモトコンポ

どんなところで私がコレクションを収集しているかというと、一般的なおもちゃ屋さんはもちろんですが、割とこまめに足を運んでいるのが、実はリサイクルショップなのです。土日祝日に行っても収穫は少ないのですが、平日の夕方くらいまでに訪れると掘り出し物に出会う確立が高くなるのです。コンビニエンスストアでブラインドボックスを頻繁に販売していますが、いかんせん、ブラインドだけに中身が見えないのがたまにきず・・・そんなとき、リサイクルショップへ行くと、多分他のコレクターがダブってしまったものを放出したのでしょうけど、透明ビニールにパッケージされた状態で販売されている新品に出会えるわけです。しかも値段が新品の半分以下のことが多く、お財布にもやさしい。ただし、コンビニエンスストアと同時に販売されることはありませんから、気長に放出されるのを待たなければならないので、早々手にしたい人でくじ運の強い方にはオススメしません。ただ、何箱買ってもターゲットにヒットしなかった場合は是非試してみてください。

minicarshop1.jpg
リサイクルショップ店内 ミニカーコーナー 「ブラインド(目隠し)」は一切ありません

minicarshop3.jpg
通常品からマニアックなものまで、あらゆる種類のミニカーに出会えます

私の場合、常に「3箱ルール」というのを遵守しようと努力しいて・・・あくまで「努力」であって、実際には3箱では済まないことが多い・・・幸いに3箱購入すると結構目当てのものに出会えるので救われていますが、ダメだった場合は1、2ヶ月経ってからリサイクルショップに出かけるのです。すると、意外に格安で販売されているのでラッキーとなるわけです。しかし、そうは言ってももちろん出会えないものもあります。私が探しているもので唯一出会えないものが、京商のブラインドシリーズで1:64ロータス・ヨーロッパです。今のところ「縁」がなく、しかたないのでトミカで満足しています。

トミカ ロータスヨーロッパ
トミカ ヨーロッパ 1:59 中国製(最近は日本製は販売していないようです)

トミカやホットウィールは愚息達と収集に励んでおりますが、私がずっと以前から収集しているダイキャストミニカーにHONGWELLの1:72シリーズがあります。始めて出会ったのはコーヒーのオマケとしてで、ドラッグストアの店先ででした。当初はVW、ポルシェのシリーズが主流だったのですが、次第にあちこちで様々な販売形式で欧米車、国産欧米向け輸出車をリリースしているのを見かける様になりました。小さいながらも精巧に再現されたミニチュアカーが、安いときにはトイザらスで、なんと¥98で手に入りますが、車種が欧州中心にラインナップされていますので最近では収集対象から外れてしまった感じがします。

VW ビートルパト
ホンウェル ビートル 1:72 中国製
  ⇒HONGWELL

同じように収集対象から外れてしまったものに尾上萬の1:72があり、これは店頭ではほとんど見られなくなりました。旧車ではありませんでしたが、かつては他の1:72には設定されていない車種もあり数台購入した経緯があります。ガチャガチャでお馴染みのEPOCHやYUJINも国産旧車を扱っていた頃がありますし、お菓子メーカーのブルボンも一時期コーヒーのオマケに1:72の国産旧車を設けていたことがありました。一方、割としぶとく私の射程距離に留まっているものにREALX(正しくはREAL-X)の1:72ミニカーがありますが、こちらは㈱ヨーデルの製品です。旧式の国産スポーツカーを扱うことが多いので、常に私の触覚をビンビンと刺激しつづけているのです。

ミニカー棚 リビング1
リビングの様子 下の二段は1:72を中心に展示してあり、一部を除いてREAL-Xです

64、72比較 S800
手前はREAL-X 1:72、奥は京商 1:64
  ⇒REAL-X = YODEL
  ⇒EPOCH
  ⇒YUJIN

さて、トイザらスの話がでましたから、一言付け加えておきますが、ここで販売されている廉価ダイキャスト・ミニカーにREALTOYのアクションシティシリーズがあります。なんと、¥100均より安い¥98で、旧車はありませんが作りこみが優れたものを手に入れることができます。ついでに、¥100均のミニカーで有名なMAISTOも品質はREALTOYよりは落ちるものの、面白い車種に出会うことができます。HOTWHEEL同様にフェラーリから正式な許可をもらってミニカーを製造していますので、フェラーリ系はチェックしておきたいところですね。

MAISTO フェラーリ
MAISTO フェラーリ GTO ディトナ
  ⇒MAISTO
  ⇒トイザらス
  ⇒REALTOY

ご多分に漏れず手を出してしまっているのが1:64のミニカー。こちらのサイズは巷で1:72より人気を博しているようです。中でもコンビニのサンクス(サークルK)と京商で企画するブラインドシリーズは販売後すぐになくなってしまうことが多く絶対に情報を見逃すわけにはいきません。京商は他にもHOTWHEELS 系、FLY(Spain)、MINICHAMPS、MATCHBOXにも関わりがありますので参考にしてください。

1:62 S800 比較

1:62 S800 比較②リア②
1:64 ダイキャストミニカー比較 左からDydo 京商 コナミ(Dydoのみメタルトップが脱着可能)

ミニカー棚 フェラーリ③
ミニカー棚 フェラーリ①
京商のブラインドシリーズ等で揃えた1:64フェラーリ 玄関に展示してあります
  ⇒KYOSHO

さて、1:64という縮小率は他の様々なメーカーで見かけることができます。中でも発売日が待ち遠しいのがTOMY(TECH)のビンテージシリーズでしょう。1960年代~70年代と80年代からのものという2本立てで旧車をラインナップしています。

  ⇒TAKARA TOMY

さて、リサイクルショップについてですが、とにかくいろいろな店に出かけてみることです。例えばA店はミニカーの品揃えは悪いが比較的安価で掘り出し物に出会える一方、B店はミニカーの品揃えは豊富で若干高め、C店はジャンク品の中から掘り出し物が発見できるなど、私の場合大手から小さな店まで6、7店舗を徘徊しています。どうしても欲しいものは上限を¥3,000と決めて1ヶ月ほど考えた上で、まだ売られていなければ「縁」を感じながら購入する場合もありますが、大抵1台¥100~400の間で購入しています。とにかく私が提唱する「エゴイスティック・ライフ」即ち「ミニチュア・ライフ」の根本が「無理は禁物」なので、私のような妻帯子持ち低所得者でも破産するようなことはないはずです。「人生に潤いを」即ち「人生に妄想を」というのがモットーですので、ご賛同いただける方は是非ご参考になさってください。

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